B4入院中

現在、私のB4(BL5)は現在入院中です。症状はオイル漏れです。

微妙な量の漏れだったので、ボクサーE/G特有のカムカバー周辺かと思って軽く考えていましたが、結果タービン周りからの漏れで最悪はタービン交換です(x x;)

なかなかの走行距離なので仕方無いといえば仕方ないでしょうが。。。

時間さえあれば自分で頑張ったりするんですけど、今なかなか余裕ないですし、さりとて廃車もここまで来ると忍びなく、そんな葛藤の中「修理や!」とドック入りを選択しました。

依頼した整備工場は丁寧作業で安心なのですが、時間は掛かるので首を長ーくして待ってる状態です。

早く直るといいなぁ。。。

レガシィB4

志向の違う話を書きます。

私はH16製のSUBARUレガシィB4(TA-BL5)に乗ってます。

今地球6周半を過ぎて、7周走破も見えるところです。

強い思い入れがあった訳ではないのですが、なんとなくここまで乗ってきてしまったのは致命的なトラブル、故障が無かったから以外ないのかもしれません。

もちろん定期的なメンテナンス(ゴム類、油脂類など)は怠らずしてきましたが、オイル交換などオート〇ックスや〇ェームスなどでやるくらいでした。

もちろん一定のヘタッた感はあります。体が触れる部分の劣化(革ステ、シート)はあるし、この前も後期型のシートをオークションで落として交換しました。

でもエンジン、ミッションなど、走行機能の部分は壊れないし、燃費もほとんど新車時から変わらないでここまで来てます。足回りも初期がガチガチだったぶん、ヘタってちょうど良い位の減衰になっているような。。。

ここまで来ると、どこまで乗れるのか考えるところですし手放すのも忍びない、愛着が沸いてきているのだと思います。

ですので、少しづつこれまでの乗車歴でポイントとなる雑記を今後書いていきます。

(言うてるそばから、致命傷で幕を閉じてしまうかもしれませんが、、、)

時は過ぎた

結局、前回更新から何年過ぎたか…。

日常の忙しさに紛れて、また5年過ぎた。この間、このサイトがあることすら忘れていた。

約束?なんてそんなものか。いや、約束なんかしていない、自分に対して向き合ってみただけなんだろう。

とにかくこの5年はめまぐるしく様々な環境が変わった。

あのときの友達は、同士は、今どれだけつながっているのだろう。

少しでも記憶を書き残して、彼等との時間が輝くものだったことをここに留めたい。

久しぶりに、

何年も経ってしまった・・・。かれこれ5年は経過しているかもしれない。
仕事を変わり、ブログページのアドレスが変わったのかアクセスできなくなり、そのまま存在すら忘れてしまっていた。なのに最近になって「イニシエのライナーノーツ」が検索に引っ掛かり、まだ存在していたページにアクセスしてみると、5年前の精神状態が伺われる全く恥ずかしい文体に赤面してしまうのであった。
多分、第三者は全く興味無く流す、棄てるであろうこのページに、再度復活してみようかと思います。

不定期に更新します。約束します。自分のために。。。f:id:na8croadster:20200222172912j:plain

或る日の少年にとっての冒険

「○○釣具に行かない?」
これは其の時の少年達にとって「冒険」を意味した。先にも書いた通り東松山に住む少年にとって「熊谷(○○釣具店は熊谷にある)」は少年の生息域を超えた場所であった。隣町の距離にしたらホンの15km程か、、、車なら30分と掛からない距離だけど、少年達にとっては自転車が唯一の長距離移動手段であり、路線バスという選択もあったけど、その往復運賃はルアーがもう1つ買えてしまうという事であり、例え時間や天変地異が在ろうと自転車なのであった(例外的に友人のお父さんの車に乗せてもらえる事はあったが路線バスを使ったのは高校受験する為に、が最初だったかな?)
・・・何故に此処で突然○○釣具が出てくるかなのですが、当時(今もなのかな?)知る者ぞ知る隠れルアー専門のお店だったのです。なぜそうだったのかは未だ分らないのですが店構えは至って普通の店で、むしろヘラブナ釣専門?といった面持ちでした。
しかし薄暗い店内に入ると人1人やっと歩ける通路の両脇は普通の釣り道具と一緒にダイワ、シマノは当然、へドン、アーボガスト、ラパラ・・・ルアーが堆く積まれる「宝庫」という形容が最も適切な表現のお店だったのです。当時でも希少な古いルアー、多分第1次バスフィッシングブームの頃に仕入れたのではないか?という掘り出し物も数多くあって、なぜ其の時目前の御宝に気がつかなかったのか?その後マニアによって買い漁られてしまった事からも今更ながら後悔の念に絶えません。
個人的な事を言ってしまえば、高校時代なぜか部活のテニスに打ち込んで、殆どバス釣りをしなかった時期があったのです。熊谷の高校に通っていながら殆ど○○釣具店には行かなかったというのも今更ながら惜しい事をしたと思います。
また、当時としてはあまり割引の無かったルアーが定価の1〜2割引で買えるのもお金のない少年には大きなメリットでした。ダイワの販売協力店だったのかダイワは定価の2割引位で買えたと記憶してます。多分こっちの理由の方が当時の少年にとっては大きな理由だったかも知れませんね。だったと思います。
・・・話を戻して・・・○○釣具までの行程は少年にとって「冒険」を意味していた。だから独りで決行する事はなく、数名のアタック隊を組んで望むのが常だった。また、一度行くと疲労或いは充実感?金銭的欠如から次のアタックは1ヶ月〜半年は空くものだった。
・・・或る日も・・・「行くか」という話になった。
週末、友人の家に朝も早々に集合した。なぜかそういう時は誰も寝坊する者はいなかった。それぞれの懐具合を探りつつ、皆ありったけの小遣いを持ってきている事を感じ取りながら各々自転車に乗り込み出発した。
スタートは下り坂の多い道で快調に飛ばしていく。坂を下りきるとR407に繋がるがそこから平坦な道が続く。当時も今も輸送トラックが幅を利かせる道で轍や土埃が舞う、交通弱者に優しくない道でペダリングのタフさを要求された。
法定速度の2倍で走るトラックが通り過ぎる時、風は押し波、引き波として現れ、自転車を巻き込んでいく。バランスを崩さない様に、弾かれない様に更に必死にペダルを踏み込む。
20分程こぎ続けると山田うどんが左脇に現れる。だが朝飯はしっかり済ませているのでたぬきうどん180円を食うほどではないのは皆同じだった。冒険の先にはルアーを買わなければならない使命感があるのでここで散財する訳にもいかない。一旦の休憩を取りつつ中間ポイントであるコンビニを目指す。
小川を渡る橋を超え、漸く休憩ポイントが見えてきた。後方よりの暴走トラックをかわしながら横断すると一呼吸置き、互いに安堵の表情を交わしながら店内に進入した。
・・・もちろんここでも出費は最小限に抑えなければならない。結局ブリックパックと駄菓子屋太郎(お菓子の事です)で一息つく。
かなり来たなという安堵とまだ半分あるという緊張と若干の疲労が加わってスタートを切るのに一瞬躊躇するがいつまでも留まっている訳にもいかない・・・。この先は荒川大橋を渡って熊谷市内に入らないと何もない場所なので、充電した身体を確認するかの如く皆それぞれに自転車に跨り、残りの行程を一気に走り切るつもりだ。
橋手前のY字路交差点まで自転車1台がやっと通れる歩道ガードレールが続く。下に溝板が走り走行抵抗になるのであまり走りたくないのだが暴走トラックの餌食になるのは嫌なのでバタバタバタとタイヤと溝板が作り出す音を連ねながら走っていった。
その後橋までは緩やかな上り傾斜で更に加速させていく。橋から眼下には一級河川に相応しい荒川の水量が確認され釣人が糸を垂れていた。河川敷運動場ではボールを蹴る学生やマラソンに汗を流す姿が見えた。視線を上げると浅間山まで貫く透き通った視界が開けた。
それらを確認する余裕ができたのは橋の中央を過ぎ、下り坂になってからなのであるが、風を受けクールダウンしていく中でキラキラとした風景を皆眼底に焼き付けていたのだと思う。
橋を渡ると全く新しい世界が広がった・・・。県北の中核都市である熊谷は東松山には無い「都会」であり、そこには初めて都会に出て来た若者が刺激を受けるのと同じ感覚があった。目の前に存在する人々は皆全て見知らぬ人、自分達はストレンジャー。注意を寄せる者はそこには誰もいなかった。
・・・やがてあっけなく、すでに目標物は我々の目前にあった。高崎線秩父鉄道が並走する踏切を渡り切ればもうすぐだ。逸る気持ちを抑え、全員が足踏みを巡航スピードに切り替えた。
・・・くどい説明だが、○○釣具店は存在も異質だが場所も不思議なところにあった。熊谷銀座通りだったかな?昼間は閑散としているが夜はネオン眩しい歓楽街へと変貌し、バーやキャバレー(死語?)場末の赤提灯も林立する場所であった。店の向いには成人映画館が居し、昼間でも時流から外れた風貌の紳士達がひっそり佇む姿は、知識に乏しい少年達の想像を掻き立てるには十分だったと思う。さすがに入る事はなかったけれど。なんであの立地で開業しているのかは未だに定かでないけど異質なのに間違いはなかった。
話は目まぐるしく戻るが、前述の通り、店には宝物が無造作に陳列されていた。今日は1200円のウーンデッドザラを手にするつもりである。ダイワ製ルアーも入手するつもりだ。
主人は線の細さを感じさせる風貌と、いつも愛想の無い表情をしていた。ルアーを受け取ると機械的に袋詰めし、お金とお釣りをやり取りするだけの関係だった。ただ好感が持てるのは相手が誰でも同じ対応を取ることができることである。異質な場所に長居するが故だろうか。

一通りアタック隊の買い物が終わると、既に自分たちの目的は釣り場で直ぐにでも手元のルアーをデビューさせる事に変わった。別に不安は無いが一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動にも駆られている。

自転車に跨ると各々帰路に着こうとした矢先、アタック隊の一人が言った。
「ちょっとダイエー行かない?」・・・???・・・
ダイエー

さて、その後お店に顔を出す機会は逸している・・・ダイエーも今は無くなってしまったし。でも今、あそこに行ったら、あの時置いてきてしまった何か忘れ物を見つけることが出来るかも知れない。どうしよう、、、ひょっとしたら店先にあの時のあいつがいるかも知れない。ひょっとしたら、、俺かもしれない・・・。そいつに会ったら、俺は今真正面から彼等と目を合わせる事ができるだろうか・・・。
あの時一緒に行った友人達・・・それぞれの生活を維持し、今はメールすら稀になった。でも、あの頃の思い出は今もなお各々の記憶の片隅に鮮明に残っているのだと思う。当時自分がどんな大人になっていたいか、語り合った日々、打算や駆け引きの無い関係、お互いを思いやる気持ちは真実だった。
永遠の少年達は今もなお自転車をこぎ続けている。
(たまには誘って飲みにいってみるか・・・)

釣りにいきたいなぁ

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この歳になって、入手しました(^^;)

ブラックバス釣りに憑かれ早30有余年・・・
今年も殆ど現場に行くことも無く暮れてしまう様です・・・重ねる年齢のせいでしょう・・・
という訳ではありませんが80年代の極めてローカルな地域の子どもたちの趣味について綴ってみました。場所は埼玉県東松山周辺のバス釣りについて・・・
・・・・・武蔵丘陵地帯は農業用水としての溜池や河川が多く存在し、そこに生息した少年達にとって「釣り」は間違いなく初めての趣味であり、学びの場であり、社交の場でした。
フナ釣りをしていた少年達は、当時第2次ブーム到来の最中「ブラックバスフィッシング」の魅力に憑かれ、他の釣道具とは異なる、鈍く輝きを放つ道具達への憧れから小遣いは殆どそれらに姿を変えていたものです。
特にリール(ベイトキャストという太鼓型リールです)は自らの個性を主張するアイテムでした。裕福な家庭の子は迷い無く"ABU"を選択しましたが、スウェーデン輸入物はプレミアムで、殆どの少年達は"MADE IN JAPAN"の優秀な機械へと傾倒していました。ダイワ、シマノリョービオリムピック・・・チョイスによって少年ながらの自己主張をしていたのだと思います。
(余談ですが日本のモノ造りは今も昔も最高レベルにありリールのキモとなる精密歯車加工とベアリング加工の技術は当時から秀逸でありました・・・と書いていて、これは今思うこと、当時は其処まで知識も思慮も深くなかったです。「軽く回る」「良く回る」が良し悪しを決める判断基準でした)
小生の場合、エントリーモデルはダイワミリオネア5000。いきなり新品は買えないので友人からのお古でした。スピードスティック#1−16HOBBとの組み合わせは成長途上の少年にはちょっと重く大きかったけど、バックラッシュし難く、入門用として大変良いものだったと思います。当時「釣りキチ三平」が流行っていてサザエの代わりにバケツを狙ってキャスト練習をしてました。
肩にロッドを担ぎ、5段変速スーパーカーライトの黒い自転車に乗って吹上手前や吉見の沼まで遠征していました(今乗り物は車に変わったけど野池ブッシュで格闘しながらの釣りは持続中です。進歩の無い話ですけど当時のままの感覚をずっと引き摺ってるみたいですね。そしてこれからも変わらないでしょう・・・)
夏休みも部活なんてそっちのけで毎日出掛けていって夕方まで釣り三昧、中2の時はそれが原因で夏休み明けに部活をクビになった程でした。勿論そんな事微塵も気にせず以降も毎日バス釣りの事だけを真剣に考えていました。いっそ釣り部でもあれば良かったのにね。
そして釣り場や釣果等日々の情報収集は友達ネットワークだったり、釣具店であったり・・・
そうそう、今では考えられない事ですが当時の丸広百貨店にはデパートでありながら釣り具コーナーがあって、近所の釣具屋では考えられない程ルアー・フライコーナーが充実していたのです。そしてそこには子供達が皆慕う増田さんがいました。
良い意味で子供のあしらいが上手かったのでしょうか。自身も相当マニアだったのかな。釣り場情報やその他釣りに関する質問をすると必ず答えが返ってきました。お兄さん的な存在だったんでしょうね。「趣味と仕事が同じ、こんな仕事に就けたらいいな」と思った少年は他にも沢山いたと思います。
少年達が、キラキラと輝いた道具達の展示されたグラスキャビネットを羨望、溜息で眺めていると「これはいいよねぇー」「これは釣れるよぉー」と優しい笑顔を交えて声掛けられると、釣れる想像は確信へと変わり1ヶ月の小遣いがそれらに変わっていった事はいうまでもありません。
でも、当時の輸入ルアーは1個1200円もする高級品で、亡くしでもしたら1ヶ月はブルーな気持ちを引きずってました。ホッテントットを最初に無くした時は大変なショックで、今だボトムフィッシングに抵抗感があるのは間違いなくこの頃のトラウマです。
ダイワ、シマノ製はその半額位、コーモラン製は更にその半額で、こちらもMADE IN JAPANがコレクションのメインだったな。ダイワのランカーボックスに1つ2つと増えていくルアーを眺めるのも楽しみのひとつでした。友達とルアートレードもよくしてたなぁ。
この後書き込もうと思っているトップウォータ用のルアーもこの頃かなり集めたと思います(自称トップフリークです)
初めて釣ったルアーはダイワのバスジャッカー(トップじゃないじゃん)釣れたのはバスではなく雷魚でした。何がなんだか分からない内にガツンと手応えがあり、ひたすら巻きつづけると蠢く巨体が眼前に!楽しむ余裕も無く岸場へ引き摺り上げ、心臓の鼓動は中々平常に戻らなかった・・・と記憶しています。
じゃ初めて釣ったバスは???こっちはあまり記憶に無いのですが多分やっぱりバスジャッカーだったんじゃないかな?ダイワのルアーは安いしよく動くので実釣用として一番使ってた気がします(ディープダイバーなのでよくロストしたけど)
実は初ヒットはもっと前だったのですが一瞬バイトのみで無味乾燥な記憶しかありません。水面を戻る姿から小型の雷魚だったと思います。ルアーはコーモラン「かえるくん」安くて釣れる頼もしい奴でしたが魅惑的な動きをする足は反面脆く、すぐ切れてしまいます。両足もがれて情けない姿になってしまうとキャスト練習用に使ったりしてました。
さて、ここまで書いて私はダイワ派か?と思われるでしょうがシマノ派です。
リールの変遷は・・・
ミリオネア(ダイワ)→バンタム10SG(シマノ)→ファントムマグサーボSS20(ダイワ)→今だ現役ファースト1のバンタム201SG(シマノ)へと繋がるのですが・・・
マグサーボは当時始めてマグネットブレーキを搭載した最新モデルで、遠心ブレーキを使わない、渦電効果を利用した最新技術は少年にとって文明開化であり、心躍らせるモノとして充分なものでした。お年玉+小遣いを貯めて漸く手にした少年のドキドキ感は今表現すると気恥ずかしい位のものだったと思います。
しかし使い始めてすぐ、マグブレのキャストフィールがしっくりこなくて早々に友人と等価交換していました。こう考えてくるとシマノ派というより遠ブレ派っていう表現が適切ですかね。
あ、バンタム10の思い出を書いてないですけどバンタム10は新品で初めて買ったモデルで流線デザイン・黒ボディともかなり気に入ってたんですよ。フジの黒グリップにマッチしたし。ミリオネアと同じブロンズメタルなんでバックラッシュし難かったし。でもその頃の少年の心理として投げ易さじゃなくて、良く回るボールベアリング入りのリールで軽いルアーをバックラッシュさせずに涼しい顔して投げられる方がカッコ良い!・・・といった自意識過剰な基準があった為です。
そしてなぜ、バンタム201SGなのか・・・
初めて目にしたのは友人が購入したのを見たときです。左ハンドルと独特のタコグチ型パワーハンドルが印象的でした。バンタム100=ウッドハンドルで、今に思えば渋いけど(事実最近コレクションとして購入してるし)その時の少年にとってはそれほど魅力的では無かった(100EXのガンメタボディーは憧れではあったけど)寧ろ硬質ラバーのハンドルが実釣向で潔い。また、左ハンドル仕様は当時稀な(国産初??だったかな?)存在だったしキャストしてから直ぐにコンタクトできるという謳い文句は、例えそんなアタックシーンは稀だとしても「陽気なブラックバスはサイエンスフィッシング」をバイブルとしていた小生、何の迷いも無く真冬でもトップを投げ続ける薄脳の少年にとって羨望以外の何者でもなかったのです。
彼(友人)と同じものを買う事には抵抗があったけど、彼(201SG)は、それに余りある存在感を放っていました。
先ほども記した丸広釣具のキャビネットに展示されている姿を見ては、絶対買ってやる!と日々拝んでいたものです。家の手伝いとかして購入できた時は本当嬉しかったな。釣り行く毎に分解清掃と注油は欠かさなかったですから。今だ現役で使えるのもそのお陰でしょう。
201とはその後様々な場面で共に喜びを分かち合ったけど、これからもその関係は続いていくと思います。日本からバス釣りが締め出されない限り。

・・・今日はここまで。続きはまた後日に・・・