或る日の少年にとっての冒険

「○○釣具に行かない?」
これは其の時の少年達にとって「冒険」を意味した。先にも書いた通り東松山に住む少年にとって「熊谷(○○釣具店は熊谷にある)」は少年の生息域を超えた場所であった。隣町の距離にしたらホンの15km程か、、、車なら30分と掛からない距離だけど、少年達にとっては自転車が唯一の長距離移動手段であり、路線バスという選択もあったけど、その往復運賃はルアーがもう1つ買えてしまうという事であり、例え時間や天変地異が在ろうと自転車なのであった(例外的に友人のお父さんの車に乗せてもらえる事はあったが路線バスを使ったのは高校受験する為に、が最初だったかな?)
・・・何故に此処で突然○○釣具が出てくるかなのですが、当時(今もなのかな?)知る者ぞ知る隠れルアー専門のお店だったのです。なぜそうだったのかは未だ分らないのですが店構えは至って普通の店で、むしろヘラブナ釣専門?といった面持ちでした。
しかし薄暗い店内に入ると人1人やっと歩ける通路の両脇は普通の釣り道具と一緒にダイワ、シマノは当然、へドン、アーボガスト、ラパラ・・・ルアーが堆く積まれる「宝庫」という形容が最も適切な表現のお店だったのです。当時でも希少な古いルアー、多分第1次バスフィッシングブームの頃に仕入れたのではないか?という掘り出し物も数多くあって、なぜ其の時目前の御宝に気がつかなかったのか?その後マニアによって買い漁られてしまった事からも今更ながら後悔の念に絶えません。
個人的な事を言ってしまえば、高校時代なぜか部活のテニスに打ち込んで、殆どバス釣りをしなかった時期があったのです。熊谷の高校に通っていながら殆ど○○釣具店には行かなかったというのも今更ながら惜しい事をしたと思います。
また、当時としてはあまり割引の無かったルアーが定価の1〜2割引で買えるのもお金のない少年には大きなメリットでした。ダイワの販売協力店だったのかダイワは定価の2割引位で買えたと記憶してます。多分こっちの理由の方が当時の少年にとっては大きな理由だったかも知れませんね。だったと思います。
・・・話を戻して・・・○○釣具までの行程は少年にとって「冒険」を意味していた。だから独りで決行する事はなく、数名のアタック隊を組んで望むのが常だった。また、一度行くと疲労或いは充実感?金銭的欠如から次のアタックは1ヶ月〜半年は空くものだった。
・・・或る日も・・・「行くか」という話になった。
週末、友人の家に朝も早々に集合した。なぜかそういう時は誰も寝坊する者はいなかった。それぞれの懐具合を探りつつ、皆ありったけの小遣いを持ってきている事を感じ取りながら各々自転車に乗り込み出発した。
スタートは下り坂の多い道で快調に飛ばしていく。坂を下りきるとR407に繋がるがそこから平坦な道が続く。当時も今も輸送トラックが幅を利かせる道で轍や土埃が舞う、交通弱者に優しくない道でペダリングのタフさを要求された。
法定速度の2倍で走るトラックが通り過ぎる時、風は押し波、引き波として現れ、自転車を巻き込んでいく。バランスを崩さない様に、弾かれない様に更に必死にペダルを踏み込む。
20分程こぎ続けると山田うどんが左脇に現れる。だが朝飯はしっかり済ませているのでたぬきうどん180円を食うほどではないのは皆同じだった。冒険の先にはルアーを買わなければならない使命感があるのでここで散財する訳にもいかない。一旦の休憩を取りつつ中間ポイントであるコンビニを目指す。
小川を渡る橋を超え、漸く休憩ポイントが見えてきた。後方よりの暴走トラックをかわしながら横断すると一呼吸置き、互いに安堵の表情を交わしながら店内に進入した。
・・・もちろんここでも出費は最小限に抑えなければならない。結局ブリックパックと駄菓子屋太郎(お菓子の事です)で一息つく。
かなり来たなという安堵とまだ半分あるという緊張と若干の疲労が加わってスタートを切るのに一瞬躊躇するがいつまでも留まっている訳にもいかない・・・。この先は荒川大橋を渡って熊谷市内に入らないと何もない場所なので、充電した身体を確認するかの如く皆それぞれに自転車に跨り、残りの行程を一気に走り切るつもりだ。
橋手前のY字路交差点まで自転車1台がやっと通れる歩道ガードレールが続く。下に溝板が走り走行抵抗になるのであまり走りたくないのだが暴走トラックの餌食になるのは嫌なのでバタバタバタとタイヤと溝板が作り出す音を連ねながら走っていった。
その後橋までは緩やかな上り傾斜で更に加速させていく。橋から眼下には一級河川に相応しい荒川の水量が確認され釣人が糸を垂れていた。河川敷運動場ではボールを蹴る学生やマラソンに汗を流す姿が見えた。視線を上げると浅間山まで貫く透き通った視界が開けた。
それらを確認する余裕ができたのは橋の中央を過ぎ、下り坂になってからなのであるが、風を受けクールダウンしていく中でキラキラとした風景を皆眼底に焼き付けていたのだと思う。
橋を渡ると全く新しい世界が広がった・・・。県北の中核都市である熊谷は東松山には無い「都会」であり、そこには初めて都会に出て来た若者が刺激を受けるのと同じ感覚があった。目の前に存在する人々は皆全て見知らぬ人、自分達はストレンジャー。注意を寄せる者はそこには誰もいなかった。
・・・やがてあっけなく、すでに目標物は我々の目前にあった。高崎線秩父鉄道が並走する踏切を渡り切ればもうすぐだ。逸る気持ちを抑え、全員が足踏みを巡航スピードに切り替えた。
・・・くどい説明だが、○○釣具店は存在も異質だが場所も不思議なところにあった。熊谷銀座通りだったかな?昼間は閑散としているが夜はネオン眩しい歓楽街へと変貌し、バーやキャバレー(死語?)場末の赤提灯も林立する場所であった。店の向いには成人映画館が居し、昼間でも時流から外れた風貌の紳士達がひっそり佇む姿は、知識に乏しい少年達の想像を掻き立てるには十分だったと思う。さすがに入る事はなかったけれど。なんであの立地で開業しているのかは未だに定かでないけど異質なのに間違いはなかった。
話は目まぐるしく戻るが、前述の通り、店には宝物が無造作に陳列されていた。今日は1200円のウーンデッドザラを手にするつもりである。ダイワ製ルアーも入手するつもりだ。
主人は線の細さを感じさせる風貌と、いつも愛想の無い表情をしていた。ルアーを受け取ると機械的に袋詰めし、お金とお釣りをやり取りするだけの関係だった。ただ好感が持てるのは相手が誰でも同じ対応を取ることができることである。異質な場所に長居するが故だろうか。

一通りアタック隊の買い物が終わると、既に自分たちの目的は釣り場で直ぐにでも手元のルアーをデビューさせる事に変わった。別に不安は無いが一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動にも駆られている。

自転車に跨ると各々帰路に着こうとした矢先、アタック隊の一人が言った。
「ちょっとダイエー行かない?」・・・???・・・
ダイエー

さて、その後お店に顔を出す機会は逸している・・・ダイエーも今は無くなってしまったし。でも今、あそこに行ったら、あの時置いてきてしまった何か忘れ物を見つけることが出来るかも知れない。どうしよう、、、ひょっとしたら店先にあの時のあいつがいるかも知れない。ひょっとしたら、、俺かもしれない・・・。そいつに会ったら、俺は今真正面から彼等と目を合わせる事ができるだろうか・・・。
あの時一緒に行った友人達・・・それぞれの生活を維持し、今はメールすら稀になった。でも、あの頃の思い出は今もなお各々の記憶の片隅に鮮明に残っているのだと思う。当時自分がどんな大人になっていたいか、語り合った日々、打算や駆け引きの無い関係、お互いを思いやる気持ちは真実だった。
永遠の少年達は今もなお自転車をこぎ続けている。
(たまには誘って飲みにいってみるか・・・)